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なにやらこらむ~ [中国史・殷]

亡国の民である商の人たちはどこへ行ったのでせう。

まずは「宋」。これは微子啓が開いた国で武庚の反乱の後に商人を統べるために微子啓が国主となり国を立てます。子姓の国としては最も最大であったかと思われます。最終的には康王堰の時に斉・魏・楚…主に斉によってですが…滅ぼされます。この話は後々…

朝歌が落とされ北に逃げた人が立てた国が『代』。この国は晋の北側に位置し比較的中原諸国と仲良くやっていましたが、趙簡子の意を受けた趙襄子によって滅ぼされ、戦国時代には趙の版図となり、武霊王の兵制改革「胡服騎射」の軍団として有名になります。

東に逃げた人が立てた国が『莱』。太公望が斉に封じられたとき、宿屋の親父に言われて東へ急いだ…といわれ、営丘(臨輜)を争った国です。莱の領内にはあの「梁山泊」があり、昔から徹底抗戦するためにはうってつけの国であったため東方出身の商族にとっては比較的いやすかった国だったのかもしれません。莱も散々、斉を悩ましますが、最終的には斉の霊公の頃、晏弱によって滅ぼされます。また史記列伝の2番目に名前がきている晏嬰はこの莱の国の威夷出身と書かれています。ただし、晏嬰の父の晏弱は宋の出身であることから商の末裔が商の末裔の国を滅ぼすというのは何かの因縁でしょうか。

宋と同じように中原にも商の末裔の人たちが集まった場所があります。それが「唐」ここに封じられるのが周の成王の弟の虞です。まあ、この人も面白い逸話があるのですがそれは後に回して…封地名と併せて唐叔虞と呼ばれます。まあ…言わずもがなの話ですが、中国の場合長男を伯・次男を仲・三男以下を叔・最後の子を季と呼びます。この法則に則り周王室を見てみると、文王の父である季歴はその名の通り古公の最後の子であったといわれています。では兄貴はどうしたかというと…父である古公が姫昌に国を譲りたいと思ってるのを察し、周原から逃げ出します。で落ち着いた先が呉の国。その為か史記の世家の第一には呉がきています。そしてその名前も「呉太伯世家」つまり周から逃げ出した季歴の兄貴は長男だったわけです。周の文王にも弟がいましてそれぞれカク仲、カク叔と呼ばれそれぞれ東西のカクの領主になっています。同じく周の武王の兄弟も紂王に煮殺されたと言われる長男伯邑考・次男武王発・三男管叔鮮・四男周公旦(ふけ顔~)・五男蔡叔度・六男康叔封・飛んで十男ゼン季載・・・見事に法則は守られていますね。蛇足の蛇足でスレイプニルみたいな蛇になっちゃいそうですけど、管叔鮮はぶこうの反乱のとき殺されますが彼の末裔に管仲がいる…とも言われています。他にも曹叔シンタクの末裔には曹参や曹操がいるみたいですね。そういえば刺客列伝で有名な曹カイ(曹×)も曹叔の末裔なんでしょうかね?
話がだいぶずれてしまいましたが、「唐」に残った人たちは唐から国名が転じて「晋」になり晋の国民となります。遺民の中でも原氏というのが力を持っていますがこの人たちが後の旬(草冠)氏、さらに下るのならば晋の六卿の内の二卿、中行氏・知氏になり、中行氏は中行寅のころ士吉射とともに趙簡子と争い滅び、知氏も趙襄子と争い晋陽で逆転負けを食らって滅びます。知氏の中から知過(知果とも書かれますが)と言う人が知氏をやめて輔氏を名乗りますが、戦国時代に輔氏から有名な人は出ていませんね。

北に逃げた人たちで比較的近くに逃げたのが「北狄」や「代」であるならばさらに遠くに逃げた人たちもいます。ツングースの方に箕子は逃げたと言われていますし、古朝鮮に逃げたとも言われています。そこから考えるに後の匈奴やモンゴルにも商人の血は流れているのかもしれません。また東北部にも逃げた人たちがいます。時期的には商が滅びた頃ではなく、武庚の反乱の頃、「国を開くこと一日百里」と言われた燕の召公せきの北に逃げた楼煩、林胡と言われた人たちも商人だったかもしれません。

殷本紀によると殷氏、来氏、宋氏、空桐氏、目夷氏、北殷氏、稚氏が子姓としています。
…戦国時代ではあまり有名な人いませんね(笑)

また東の海に逃げた人たちもいたかもしれません。心当たりがあるのが「商人は酒と占いを好み、古俗と礼を重んじる」…九州の隼人、熊襲も酒を好み、倭人は殷人のように文身(入墨や)にしますね。また卑弥呼は占いをよくして、占いも亀卜や盟神探湯で、天意を伺っていました。
さて、ここからはロマンの世界ですね(笑)

ということを考えていたんですけど、「春秋の色」で宮城谷昌光がその辺の事を書いていました。
…がーん、先を越された [壁]TT)ダー


殷の時代へⅢ [中国史・殷]

★最盛期

-(13)祖乙--(14)祖辛-(16)祖丁(帝南庚)--(18)陽甲
      |               |
      -(15)沃甲-(17)(帝南庚?)  -(19)盤庚          -祖己
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                      -(20)小辛          -(23)祖庚 
                      |              |  
                      -(21)小乙-(22)武丁(高宗)--(24)祖甲-

妖狐「さて、それじゃあ殷の賢人さんを祀る会・殷の歴史分科会、第3弾いってみようっ!」
…ここまで進出しますか?ここの担当予定はようこそ妖狐だったはずですけど…
妖狐「ま、細かいことは置いといてっ!」
よろしく御願いいたしますッ。(弱ッ!)
それでは気を取り直して…
この時代は、暗君と名君が混在する時期ですね。んでもって、このころに『中華』の文化圏ができる時期でいわば中国の原型ができた時代…じゃないかなぁ(笑)。まぁ、殷びいきのワタシの個人的な希望ってのも半分ぐらい入っているんですけど。
妖狐「その根拠は?」
まあ、それは後ほど。ただ、三星堆とかの遺跡とかのことを考えると、事実、殷の文化的な影響というのはかなり広がっていたといえるかと思います。
三星堆は2年程前日本の各地で『謎の仮面文化』とか言って遺物の展覧会がありましたが…見に行きたかったんですけど、ワタシは時間的な余裕が無く見に行けませんでした。
妖狐「ところで三星堆って何処?」
四川省広漢ってトコです。まあ、戦国時代巴蜀、三国時代の蜀漢のあったあたりですね。地図でいうならここら辺。
妖狐「地図がないですけどっ」
だってありませんから。自分で作るのも面倒ですし。
妖狐「先生ッ!殺っちゃってください!!」
はうっ!じゃあ本編スタート…がくりっ

妖狐「ええっと、ご主人が寝ているので私が代わりに原稿を読みますっ!」

中丁から陽甲まで9代の王が乱立して殷王朝は乱れに乱れますっ。史記にはその辺の詳しいことは書いてないんでよくわかりませんけどっ。 んで、帝沃甲が死んだ頃には殷に入朝する豪族はいなくなってましたっ。このころのお話が藤崎版『封神演義』第6部第51話ですっ!
まあ、概念的なモノと思ってください。
妖狐「あ、復活した」
いつまでも死んでられませんから。
当然、朱妃なんて人は歴史にでてきませんし、ましてや朱妃の子が帝王にはなってません。名君といわれた盤庚陽甲の弟ですし、高宗と呼ばれる武丁も殷が復活した後で、勢力が小さかったということはありませんから。
妖狐「じゃあ、藤崎版は全くの嘘?
嘘とは言い切れません。女の人も戦争に参戦していたと考えていたと思われますし、遷都があったのも事実です。まあ、当時の都はではなく相(小屯)もしくはですが。じゃ、続けてください。

んで、そんな絶望的な時代に盤庚が帝として立ちますっ。この時盤庚「帰ってこいシャア!帰らないと後悔することになるぞ!!」とは言ってませんけど、「引っ越しをして気分を新たにしよう!」と 叫んで、さらに「引っ越しするなら実家がいいなぁ」とか言ってに遷都をし,気分も新たにまじめに政治を行うと諸侯が入朝するようになりますっ。
妖狐「中興にしてはなんかあっさりしてますけど?」
まあ、資料がないわけじゃありません。
妖狐「じゃ、どうして?」
逆にこの時の資料、正確に言うとこの遷都の事が書かれた『書経』の『盤庚』三編だってほぼわかってる。ただ…
妖狐「ただ?」
資料が何処に行ったかワカラン。この歴史分科会の基礎資料である私の卒論も行方不明になって今は『史記』だけで書いてますから。 卒論のデータやその他の資料が見つかり次第アップしてゆくつもりですけど…
妖狐「けど?」
MOを探すのも、資料を探すのもめんどくさい。
妖狐「…何のためのサイトですかっ!そんな輩にはっ!」
きゅいーん
ビームカノンかっ!見切った…って有線クローアーム…ガクリッ!
妖狐「弱い奴は戦うな…ですよっ!じゃ、話を続けましょー」

で、見事に盤庚を立ち直らせることに成功するわけです。ここにご主人のに関するメモが…えーとなになに、 「さっきから『殷』って言い続けてますけど国名は『商』が正しい。中学校の教科書はナニを教えているんだ…ガクリッ」 …だそうです。ま、さほど本編には関係ありませんね。蛇足ですけど、殷代の名君には名臣がセットで付いてきます。 ご主人曰く「ビッグワンガムのプラモデルの様に」 オマケじゃないんですが…。伊尹太戊中宗)に伊陟祖乙巫賢武丁高宗)に甘盤…でも、この盤庚には『盤庚三編を読む限り名前もでてこないんですよね。 んで盤庚は何処から何処へ引っ越したか…というと簡単に言うと黄河からへ移った…っぽいです。 黄河というとその当時漢民族を悩ませていたのはやはり…だったんでしょうねっ。 ちなみに『羌』という字をATOKの初期登録には載っておらず手書きで調べたら一番最初にでてきた文字は『芋』でした。IMEでやっても『芋』でした。 ご主人…字…下手ですね。マウスだからだいっ! ちなみにも同じ部族です。遊牧民だった頃を『』、土着し農耕を始めると『』としているみたいですね。 姜姓で有名なのは太公望こと呂尚でしょう。彼は姜姓の中でもっとも勢力を持った呂氏の長だった…と言われてますけど、さてどうでしょう。このあたりは徹底的に調べてみないとわからないと思います。 でもご主人曰く 「誰かやってくれるんじゃないの。幸田露伴宮城谷昌光も小説書いているぐらいだし」 だそうです。やる気の欠片もありませんね。 さて、本編に戻りますっ。 盤庚の後小辛小乙と続きますが二人ともぱっとしません。どちらかというとへっぽこです。またしてもを衰退させてしまいます。

が、ここで新たな名君が出てきます。3300年の時を経て、小説の題材ともなる名君です。その名を武丁、通常廟号と併せて高宗武丁と呼ばれる王です。
妖狐「あ、また復活した」
いい加減美味しいところばかり持っていかれる訳にはいきませんからね。 この高宗武丁を支えた人物が3人いまして、それぞれ甘盤傅説祖己と言います。甘盤は殷を支えた大族、祖己武丁の子?そして傅説は貧乏で道の修理をしていたガテン系お兄ちゃんです。
ところがこの中でも右腕とも言うべき人物が傅説で、武丁傅説の出会いを小説にしたのが『沈黙の王』(宮城谷昌光・春秋文庫)で、出会いを感動的に書いています。
ちょっと引用してみましょう。

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武丁「う~ん、困ったなぁ」
??「お困りですか?」
武丁「うん…って誰?」
??「そんなときには私におまかせ。」
武丁「えっ」
まじかる☆ひよりん「はぁい、まじかる☆ひよりんだよ~♪」
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妖狐「…」
…感動的?
妖狐「死ねっ!死ねっ!死ねぃっ!」
ぐはっ…そ~れ、にゃう~ん…ガクリッ
妖狐「もう任せてられないですっ!後は私が仕切りますっ!」
とりあえずさっきのまじかる☆ひよりんのことは忘れてくださいっ! 高宗武丁が即位してから武丁は3年間全くしゃべりませんっ。 さらに政治も家宰に任せてずっと国中を歩き回ります。で、ある夜、夢に聖人が現れて「この人が助けてくれるよ~ん」 とか言っちゃったりしたのを本気にしてしまったらしく、顔をかかせて国中に「この人を捜せ~っ!」とか命令してしまいますっ。 …見つからなかったらギャグですんだのですが傅険(「傅」という洞窟)で道路工事をしていたお兄ちゃんがそっくりだったので 連れてきて話をしてみると聖人だったので相(宰相)にしてしまいました。それが傅説です。 フリーターのみなさん、勉強してたらいつか名君に拾ってもらえるかもしれませんよ。 …名君がいればですけどねっ。 で、武丁湯王の祭りをしているときにが止まって鳴くという事件が起こります。ここで出てくるのが武丁を支える 賢臣パート2祖己です。 祖己は不安げにしている武丁に向かって「しっかり政を行えば凶事も退散しますっ!(要約)」とか言って武丁をその気にさせてしまいます。 …見事なアジテーターぶりですね。 この時代の名臣という人たちは伊尹にしても伊陟にしても祖己にしてもみんな立派なアジテーターですね。 アジテーターに乗せられた王は名君として名を歴史に刻み次の王の世代に移るわけです。 祖庚の頃は祖己がいたためかまともに治まります。 祖己祖庚にクギを刺すため 祖己「はじめての!」 祖庚「おいしゃさん!」 元ネタ「RISKY TUNE」様 …これの何処がクギを刺しているんですかっ! 高宗(月彡)日(こうそうゆうじつ)』という訓をつくります。こちらも『盤庚』と同じく『書経』に載っています。 ところが次の世代からは情けない事にどんどん殷を弱くしてゆきます。祖庚の弟、祖甲は淫乱で国を傾けてしまいます。 …まあ、酒と女で国を滅ぼすってヤツですね。

妖狐「さて、次回は遂に『封神演義』の舞台として有名なの帝国としての最後ですっ。 殷の名臣比干・箕子・微子・祖己、周の謀臣周公旦、羌の族長呂尚、周の同盟者召公セキ…」
天命の名の下に集まる十二仙とそれに対する十天君。そして三大仙人の意図する『封神計画』とは!申公豹のいう「歴史の道標」とは…
妖狐「またいらないこと言いに出てきているしっ!」
手に汗握って額に汗「次回流星機ガクセ…じゃなかった殷の賢人さんを祀る会、殷の歴史分科会第四回『殷帝国の落日』にバトルイン!」
妖狐も人の事、いえない…ぞ…ガクリッ!

今回の出典
筑摩書房 世界文学全集 3 「五経 易 書経 詩経国風 儀礼 礼記 春秋左氏傳 春秋公羊伝  論語」
ねこねこソフト『ねこねこファンディスク』「まじかる☆ひよりん」
RISKY TUNE『横須賀あかり博物館』2002/4/9「セラピー」
バンダイ『GジェネレーションF』224 「AMA-X02 ノイエ・ジール」
春秋文庫 宮城谷昌光「沈黙の王」
キングレコード/スターチャイルド「流星機ガクセイバー」
集英社ジャンプコミックス 藤崎竜『封神演義』


殷の時代へⅡ [中国史・殷]

★建国期

-(1)天乙(成湯)--太丁-(4)太宗・太甲--(5)沃丁 -(7)小甲     -(10)中丁 
         |           |     |         |
          -(2)外丙        -(6)太庚--(8)雍己     -(11)外壬
          |                |          | 
          -(3)中壬        -(9)太戊(中宗)--(12)河壇甲



ん~まあ云う事なし…って云うぐらい天乙の名前は有名ですね。天乙湯王の名で知られていますが…ま、この時代歴史なのか伝説なのかまだまだ謎が深まる時期でワタシ的にはものすごく興味深い時期なんですけどね。殷(商)が中原を征する時の話は有名ですけどね。ちょっと追ってみましょう。

ん~っと、まず天乙めんどいので今後「湯」と書きますが…が夏王朝に逆らった原因となったのが葛伯という人物です。この人なんかすごく、伯がしなくてはならない祭礼をに注意されると「祭礼に必要な羊がいない」というわけですね。んでも人がいいから羊を渡しちゃいます。でも、祭礼は行われない。で、聞くと今度は「人手が足りない」というんです。で、またしてもは自分の国の人民を送るわけです。で、葛伯はその人民を使って祭礼と自国の修理とかするんですが、ココで事件が起こります。起きた事件というのが葛伯が派遣した子供を殺しその子のもっていた弁当を食べる。というのが事件の内容です。考えてみるとごっつ怖いハナシですけど…まあ、ナニ考えているんだ葛伯っていいたくなる事件が起こります。で、ここでついに人のよい(?)葛伯を伐つ覚悟を決めるわけです。まあ、この事件を要約すると(?)今の日本で国務大臣が町歩いていた子供を殺して持っていたコンビニ弁当を食っちゃう…みたいな事件です。…やっぱりなんかヘン
で、は葛を滅ぼし葛伯を殺してしまうわけです。この事件が結局を滅ぼし、をうち立てる原因になったわけですね。当然、方であった(方は殷の時代の階級なので断言できませんが…)はその上位者である伯を伐ったワケですから、王軍に伐たれることになったわけですが、ココでは一つの決断を下します。それは、「中華を離れること」で、は国を挙げて東方に移住することになります。中華を離れ、東夷に入り異民族となったわけです。中華から離れると云う事を決断したはやはりスゴイ…ということですか。
が、この時は宿命の出会いをするわけです。
それは「ちゅうき」という人物です。名前からして虫ヘンがついているので虫(龍)をトーテムとした部族だと思われますけど、このちゅうきはこれから後、の右腕として働くわけです。
伊尹だと思った人、ハズレです。(笑)

では民族的にはどうだったかというと、まず母親の簡狄が玄鳥(ツバメ)の卵をのみ、を生むわけですが、このような開祖出生譚は中国でも東の方に多いそうです。ということはワタシが考えるにはもとから東方異民族ではなかったかと思います。
後のと結び勢力を強くした話を東方出身のに当てはめたのではないかと思います。つまり、九夷が手を結んだのではなく元々九夷の出身ではなかったのだろうか…ということです。根拠はないですけどね。ただなんとなくそうじゃないかなぁと思っただけです。…というかそれが前提条件になればワタシの考えをまた進めることができるからなんですけどね。

話を戻して…九夷を味方に付けた天乙は中華に帰ってきます。英語で云うならば「Ten-otu's counter attack 」とでも云いましょうか。意味無いけど。しかしまたわし逆シャアの影響受けてるなぁ(先日逆シャアのビデオ見ていました…)。で、中華に帰ってきた天乙は新兵器を持ち込みます。新兵器とは「ファンネル」…じゃなくて「戦車」でした。孔子は「暦はのもの、車はのものがよい」と言っていたりしますんで。かなり完成度の高い車がの時代にできていたのでしょうか。戦国時代まで使われることになる戦車はこの時期までに完成していたのですね。ちなみに私の車はTOYOTAのモノですので孔子にダメダメと言われると思います。アレ?違う?
で、この時天乙はアクシズ落としを敢行し地球を…ちがうっ!。…閑話休題
中華に帰ってくるとき軍隊を引き連れて帰ってくるわけですがこの時、太鼓を叩きながら帰ってきたので太鼓を叩く音の「唐」から転じて「湯」と呼ばれるようになったとも言われています。その時「星の屑成就のため、ソロモンよ、私は帰ってきた!!」と言ったとか言わないとか。言うてへん言うてへん

で、中華に帰ってきたは今度は夏王朝から伯に任命されます。が、ここでまたしても事件が起きます。夏台に幽閉される、という事件でありますが…どこかで聞いた話ですねぇ…ここのサイトに来る方はみんな『封神演義』を読んでると思いますが…殷周革命前夜、姫昌ゆうりに捕まり7年閉じこめられますね。これと同じ事をもされるわけです。7年間夏台に閉じこめられます。ここで活躍するのが右腕たるヤクト・ドーガ…もといちゅうきであるわけです。まず在野人であったα・アジール…もとい伊尹を捜し出しを救い出そうとします。やっとここで伊尹がでてくるんですね。伊尹は…また別コーナーで取り上げるとして…を救うために東奔西走し、果ては夏王朝に入り込んだりして諜報活動や、再軍備などを行い覇権確立に走り回るわけです。…なんとなく散冝生南宮カツが在野の人であった太公望呂尚姫昌を救う方法を求めたのと似ていますねぇ。まあ、周建国譚はほとんど夏商革命伝説をまねたといわれる説もあるぐらいですからねぇ。つまり、よくある話を建国譚に取り入れたということでしょうか。

この間夏王朝桀王の方もただではおりません。まず、賢臣といわれた関龍蓬を殺し、傾国の美女末喜を迎え入れます。…ってダメダメじゃん。これで夏王朝は風前の灯火となりますが、ここで桀王は一発逆転の手を打ちます。それは昆吾氏と同盟を結ぶことでした。
ここでこの当時の中国の様相を説明しますと、大まかに分けて3つの勢力に分かれていました。まず覇権を握っている(はずの)「」、夏王朝の下で最大の勢力を誇り、ほぼ独立をしかけていた「昆吾氏」、いったんは中華から離れ逆襲を果たした(くどいっ!)「(殷氏)」の三氏の下に様々な中小豪族がついていたわけです。にはちゅうき伊尹昆吾には有蘇氏(冀州候蘇護や妲己の祖先に当たります)、には…だれかいたか?まあとりあえず拳龍氏関龍氏)がいましたけど殺されてしまったわけですし…この時点でかなりは弱体化していたわけです。が、なんと昆吾氏と同盟が成立してしまいます。これで夏昆吾連合軍の構図が成立するわけです。夏昆吾ってなんとなくカトンボにも聞こえないでもないわけですけど…

で、夏台から解放されたはまたしても逆襲するわけです。英語で言うならば…ってもうええっちゅーねん!
まず昆吾氏の有力な一族であった有蘇氏を滅ぼします。この時有蘇の君主は夜中に闇に紛れこそこそと逃げていったとも言われています。
で、商夏の王朝交代の混乱が終わったあと再び冀州に封じられた…みたいですね。逆に言うなれば有蘇氏はほぼ戦うことなくに降伏したともいえるのではないかとも思えますが。

で、四載かかってついに昆吾氏を滅ぼし、桀王を追放します。あ、ちなみにという単位は年と同じと考えていいみたいですね。
まあその途上で、鳴條の戦いが起こるわけですがここで湯王は一つの宣言をします。それがかの有名な「我々は、デラーズフリート。先のジオン独立戦争において…」じゃなくて、「湯誓」といわれるモノです。要は「暴虐な王と悪辣な家臣を追放するぞ!!」というものです。で、やっぱり戦いが起きてが勝利を得ます。ま、一言で言うなら「落ちろ、カトンボ」ってトコでしょうか。そんなことは言っていないとは思いますけど敗北した桀王三椶(木偏無いです)という国に立てこもりここでも敗北します。よくあるじゃないですか。負け癖がつく…ちと違うか。

『史記』によると有(女戎)というところで戦い、鳴條に逃げ夏軍は敗北した、と書かれていますね。とにかく2,3度夏軍は戦い敗北し、桀王も捕まったということですね。で、捕まった桀王末喜とともに追放されそこで死にます。は追放される前に「カミーユっ!貴様は俺の…」と言ったとか言わないとか…言わない言わない。「湯を夏台で殺さなかったばかりに、このようになったのが悔やまれる」と言い残しています。有能な人はさっさと殺しておくべきってコトですね。え?違う??
そーいうわけで、商(殷)王朝が成立するわけです。いやぁ…突然はしょりましたね…で、王権の確立後、湯王は死にます。ってまたずいぶんとはしょりますが。王朝を成立させたために湯王成湯とも呼ばれます。

二代目外丙はさっさとこれまた死んでしまい…三代目太宗太甲が王に即位します。年表では、三代目、四代目としてますがこれ、正直に言ってわからないんです。『史記』『卜辞』ではいくつか食い違っている点もあります。三代目中壬は即位したのかしていないのか、『史記』には名前もでてきません。が、卜辞には名前がでてきます。たぶん卜辞の方が同世代資料に近いと思いますんでおそらく太甲は四代目ではなかったかと思います。太甲は即位したときあまりにも凶暴、凶悪であったため伊尹によって桐宮に三年間閉じこめられます。その間なんと伊尹が政治を担当するわけです。簒奪とも思われる行為ですが、三年経ち太甲桐宮から解放されるとあら不思議。太甲は善人になっていました。善人になった太甲伊尹は政権を譲ります。
ここで、またしてもおや?と思った人もいるでしょう。ハイ、BINGOです。成立後武王は一年で病死します。その後を嗣いだ成王はまだ幼少であったため武王の弟、ふけ顔…もとい周公旦が政治を担当し、それに対し三公の乱が起きます。この時周公旦は簒奪したとも言われますが、そのヘンのハナシは時代が違うからオイトイテ…このの話のどちらかは伝承を受け、王朝の正統化をしようとしたのではないでしょうか。

善人になった太甲の覇権を確立させます。その影に伊尹の力があったことは間違いありません。で、伊尹は次の王沃丁の頃に死んだとされています。いやぁ、長生きですね…憎まれっ子世にはば…いやいや。伊尹は亳という町に葬られるのですがワタシは個人的には王都であるため王族と同じ待遇を受けていたんではないかと思いますし、伊尹の一族の誰かがやはり商王室に嫁いでいたのではないでしょうか。

沃丁のあと弟の太庚小甲雍己、と続きますが、商王家の伝統といいますか、墜落もとい堕落し王都に入朝しない豪族が増えます。このまま殷王家は滅びてしまうか…というときに名君が現れます。それが中宗と呼ばれる太戊なわけです。といってもおそらくこの人自体は何もしていないでしょう。名君というのは得てして賢臣を登用するという点に絞られるんで…中宗も賢臣を登用するわけです。それが伊陟巫咸の二人です。

伊陟伊尹の子供とも孫とも言われていますが、世代的に考えると孫もしくは曾孫あたりだと思いますが、伊尹の政治の才能はきちんと遺伝していたようです。ま、そういう例は希有なんですが…
んでもって巫咸という人は…わかんないです。名前からして史官か宗教関係者ではないでしょうか。もちっと深く調べたいけど今は時間がないからパス。

この太戊が即位するとの町に桑とコウゾの木が抱き合って朝廷に生え一夜で両手で握るほどに育ちます。このころすでにバイオテクノロジーが進んでいて、桑とコウゾの合成に成功していたんでしょうねぇ…んでもって、たぶんの町は栄養が多かったのでしょうね。それとも育生剤でも蒔いたのかしらん。
ところが伊陟はバイオテクノロジーのことを知らなかったのか、それとも知っていながら政治に利用することを考えていたんでしょうか。太戊に「これは悪い前兆!!」と吹き込んで「妖は徳に勝たずってゆーからアンタもしっかり政治をせーや」と言うと太戊も素直に「うん」とか言ってしまうわけです。というわけで太戊は一生懸命政治に励んだ結果、王朝に入朝する豪族が増えだします。で、滅亡の危機を逃れることができました。
太戊は「自分がやったことは伊陟巫咸のおかげだから文章を作ってあげよう」とか言っちゃうワケです。
まあ王事に尽くしたということなのでおそらく戦争でもふっかけて奴隷をたくさん捕まえたってコトでしょうね。当然、文章というのは甲骨文字で書かれた文章でありますが、またしてもここで「あれっ!」と思った方いるでしょう。そんなあなたは『沈黙の王』(宮城谷昌光著)を読みましたね。確かに現在伝わっている甲骨文字盤庚高宗武丁の頃のモノが多いですし、発見されているモノの最古のモノはその時代です。ところがその頃の甲骨文字は文字としての完成度が高く、もっと以前から形象文字が使われていてそれを殷王室が上手く取り込み盤庚の頃完成させたとも考えられています。うーん、確かに文字というのは一朝一夕にできるモノではナイからして…研究したいですねぇ、本格的に。

閑話休題。で、巫咸をたたえた文というのが『咸艾』と『太戊』の2編の文です。巫咸をたたえるだけでなくついでに自分の文章も作っちゃうあたり結構かわいいなんて思ったりしてますが…いかが?

で、さらに伊陟に向かって「よくやってくれたからこれから君は王族と同じ扱いをしてあげよう」などとさらに言ってしまうわけです。…なんかこれって王莽漢王室を簒奪したときと似ていますねぇ…ところが伊陟はこれを断ります。ま、賢臣としては当然ですね。で、困った太戊は『原命』という文を作り「王族と同じ扱いさせてぇな~(T_T)」と困った顔で(知らないけど)いわれたので、伊陟も「やれやれ(-o-)=3」とこれまた困った顔で(やっぱり知らないけど)その命を受けます。そしたら、の道が再び起こった…つまりまたが栄えたってコトですね。やっぱり賢臣を抱え、その功績をきちんと認めるというのが国を栄えさせる一つの要因といいたいのでしょう。

再びを栄えさせた太戊中宗と呼ばれるようになります。ま、名君といえども寿命が来たら死にます。で、あとを継いだのが中丁です。中丁は親が名君と呼ばれたその反動か都を(ホントはこざと偏です)に移します。が、中丁の功績は失われているためにワカランようで…まあ、とりあえず親の名前を汚さない丁度のコトをしてたってコトでしょうか。中丁が死ぬとそのあとを外壬が即位しますが業績は残っていません。そのあとを継ぐのが河壇甲ですが、この河壇甲もちょっと有名です。何が有名というとという町に都を移します。に都を移したといわれていますが実は殷墟で有名な安陽小屯に都を置いていたのがこの河壇甲ではないかといわれています。

が、河壇甲が王位についていた頃はさらに衰えます。このころからの命脈は尽きかけます。がここで滅んでは聞太師もお怒りになられ、間違いなく禁鞭でびしばしとはたかれてしまうのでこのあとの王朝の巻き返しに期待しましょう。

手に汗握って、額に汗垂らして次回へ続く。(青野武調で)←結構気に入っているらしい


殷の時代へⅠ [中国史・殷]

殷の歴代王室についてぼちぼち…

★殷黎明期
契-昭明-相土-昌若-曹圉--冥-振-微-報丁-報乙-報丙-主壬-主癸-               |               -恒

んで、この時期の殷っていう国は存在し得なくまだ商と呼ばれているはずですね。
開祖の契(せつ)ですけど父親は・・・わからへん。ってゆーか母親の簡狄ゆー人がツバメの卵飲んだら気分悪くなって生まれちゃった。ってゆー現代だったら女性週刊誌が好きそうな出生の秘密を持っているわけです。
で、さらに、この簡狄、実は帝コク(興/告)の次妃といわれていますが…ちなみに正妃は姜源といいますが、この姜源は后稷の母親であったりします。あ、后稷っていうのは周の始祖で、農業の振興を担当していた役職名でもありますね。この時代は堯の治世だったんじゃないかと思われますが…あまり断言できません。
で、結構気になるのが契の治めていた土地というのが雷沢なんですが、ここは堯の後継者舜が治めていた土地なんですね。殷の世襲制度といえば末子相続もしくは兄弟相続。…ということは契は舜の兄弟か子供?という仮定が成り立つわけです。
で、舜(俊)の子供にしちゃった小説が宮城谷昌光の「布衣の人」ですね。
流浪の族長だった舜が行きずりのえっちでできたのが契というわけです。表現悪いなぁ、もう
で、舜が堯の摂政になり町を離れるときに推挙するのが契だったわけですね。初期親子相続とも考えることができますが…
舜が流浪の族長だったのならば逆に言うなれば遊牧民族であったと考えることができるのではないでしょうか。
遊牧民が土地に定着し、農耕民族へ転換を図った時期だったのでしょう。
商という字も元々は女性を形取ったものともいわれていますが…って聞くとちょっとエッチっぽい?…女系民族だったのでしょうか。
女系民族は遊牧民族に多く見られるところからやはり商族は遊牧民族だったんでしょうねぇ。
んで、契の頃に力を持ち始めたので中央政権に認められるようになったのでしょう。

で、舜がらみでもう一つ。舜の弟は「象」といいますけど、とんでもない弟で舜が屋根に登ったら梯子をはずして下から火をつけたり、井戸を掘ったら上から土を入れたり…まあ、弟にしたくない男1号と呼んであげたいですねぇ
で、この象という文字。日本語では商と同音ですよね。うーん、中国語に詳しい方、この辺の詳しいこと教えてください。
商と象の語源なんかは自分で調べるコトができるとは思いますが、中国語ニュアンスの詳しい意味なんか…
イマイチ中国語は得意じゃないんでよくソレで大学が卒業できたな!!

で、また契に戻りますが母親が卵を飲んで子供が産まれ国の始祖になったっていうハナシは中国では東の方に多いそうです。
ということはやはり商は東方出身である…と考えるのが妥当だと思いますが…
ここでまた一つおもしろ…興味深いハナシが…商の人々の主食は黍、稲、麦であったわけですが、それぞれの原産地は稲は中国南部、黍は…忘れましたが…、麦は中央アジアで、この麦をキーにええと…何とかいう作家(研究家?)水上静夫氏だったかなぁ…が面白いこと書いてました。
契も后稷も母親は違えど2人とも帝コクの子。で、出てきたのが「殷(商)周同源論」。中央アジアにいた遊牧民族が、黄河に沿って東進し、黄河を越えた一族が商族となり黄河を越えなかった一族が周族となった…ってゆうものです。
一部納得できる点もあるのですが…個人的には同源というのは苦しいかと思います。
理由として…まあいろいろ。それは別のところで。

で、契の続き。まあ、契はその後舜をたすけ、商の地を与えられ商という国が成り立ちます。この契、かなりできた人で舜の後継者の候補の一人になるわけです。が、ライバル(?)に禹がおり、この後しばらくの間商はさえません。

で、二代目の昭明から一四代主癸まで冴えません。『史記』にも名前しか載ってません。
ただワタシ的に気になるのが十代報丁から暦が名前に出てきている点ですね。この後名前に暦がつくのは殷最後の紂王まで続きます。
この辺の伝承なんか調べてみたいと思ってますが…時間があればネ。

さて今回はこの辺で…次回『商帝国成立-疾風怒濤!湯王中国を席巻す-』に続く…続きますがこんなお題じゃないですよ(笑)


中国の歴史世界へⅢ [中国史・殷]

殷周文化比較

1.殷・周それぞれの国の成り立ち
  殷

殷の始祖は契といい、母親が有絨氏の娘で黄帝の曾孫の帝の次妃で簡という。簡がツバメの卵をのみ契が生まれたとされている。このような神話があるのは東方の部族が多く、そのため殷は東方に起源を持つ国家だと唱える人もいる。また、契が商(河南省)に封じられた為、中国では殷ではなく商と呼ぶのが普通である。14代の湯の時、処士の伊尹らの力を借り前王朝の夏の傑王を追放し中原を制し八百諸侯の頂点に立った。そして湯から数えて30代目(史記)帝辛の時に殷周革命を迎える。

  周

周の始祖は后ショクという母親は姜原といい帝コクの元妃だったと言われる。姜原が大きな足跡を踏んだ後后ショクが生まれたとされている。后稷の子孫は零落し、戎テキの地に出奔していた。このことから考えるに、周の祖先は西戎と縁のあるもの、もしくは西戎だったとも言われる。後に古公壇父がヒンという国を建てるが、たびたび蛮族に攻められ、岐山の麓の周原に国を構える。古公壇父の孫姫昌の時殷周革命を迎える。

2.殷・周の文化比較

  基本的に殷は東方より興った国であり、未だ伝説の方が先行している国なので、どのような文化を持っていたのかよくわかっていないが殷墟、鄭州遺跡を筆頭とする仰韶文化・竜山文化・小屯文化に属する遺跡などから、占いによって行動を起こす神権国家であったと思われる。殷の時代には高度な青銅器文明を持ち、漢字の原型・象形文字が亀卜に描かれるところをみると同時期の世界の国家の中でも高度な文明を持っていた国家の一つでもある。殷の社会は甲骨文字発見当初、亀甲に動物の名前や魚の名前が書き込まれているのをみて、殷の社会体制は牧畜社会であり、一応農業もささやかながら行われていた。そして殷人は遊牧民であり、盤庚(19代)が商邑に都を定めるまで何度も都を変えているのがその証拠である、そして商邑に都が置かれたのは農業が定着し始めた証拠である。しかし、農業は始まったばかりで全盛ではなく、牧畜がこのころ全盛期であった。さらに時代が下って安陽に都が置かれる頃になって牧畜から農業に移行した。と郭沫若や児島祐馬博士(京都大学)は主張していた。だが殷の時代は神権国家であったのは紛れもなく、神に対する供えものとして使われていたのは動物の肉であり、牧畜国家ならば神への捧げものにできる御馳走は動物の肉ではなく、農作物を神への捧げものにする、と反論がある。胡厚宣という人物は以下のことをあげて殷が農業国家であると主張している。(1)殷代は雨が多く気候は温暖であった。(2)天文歴法.すでに日食、月食の予測ができた。また星の観測ができたことを示す卜辞がある。四季の観念ははっきりとしないが植え付けの春と採り入れの秋の観念が卜辞にあった。殷には暦が存在し、閏月があり、回帰年と暦を調節することができた。(3)殷代の農業地域は調べることができた。(4)土地制度.土地は国有で王が土地を諸侯に分けて封じていた。諸侯の義務は軍事・進貢納税・耕作の三つであり諸侯が民衆を率い農作業をしていた。(5)農業技術.鍬があり牛耕、潅漑などがあった。(6)農作物.主要産物は黍・稲・麦であった。酒類も酒・甘酒・白酒などが存在していた。(7)雨ごいの習慣。などのことからどうやら農業国家であったと推測されている。一方周の方は西方から興った国であり、先祖の名前が姜ということから見えるとおり、西方の牧畜文化を持っていた国家であったといわれている。農業文化に移行したのはヒンに定住するようになった頃と考えられる。定住した頃に「戎狄の俗を貶め」(史記)農業国家に移行している。また神に対しても殷ほど熱心ではなく武王の東征の時も占いで凶が出たときでも太公望は「枯骨や死んだ草にどうして凶と判るか。祭れば凶、優れた戦術があれば戦っても勝つのだ。」と言い、亀甲を踏みつけたという。このように中原の農業国家と、牧畜から農業に移行したばかりの新興国家の文化の激突が殷周革命でもあった。


中国の歴史世界へⅡ [中国史・殷]

甲骨文字と殷の社会について
1.甲骨文字の発見

 甲骨文字は1899年偶然、国子監祭酒(学徳が高い人が選ばれる、学者として非常に名誉のある職。)王懿栄の食客、劉鶚・字を鉄雲という人物が薬として買った竜骨(と言われた)に文字が刻んであることから発見された。王懿栄が斉や櫓など、周代の遺跡が多い山東省出身であったことから、金石文(鼎や石碑など金石に刻まれた文字。)に詳しく、また劉鶚も金石文に関心を示していたことから、この竜骨に刻まれた文字は今まで知られている文字よりももっと古い文字ではなかろうかという事になった。もちろん竜などは現実に存在していないので竜骨の正体である亀の腹の甲羅と牛の肩胛骨(獣骨)から、亀甲獣骨文字略して甲骨文字と呼ばれるようになった。
 また一方山東省の骨董商人、范維卿という人物が河南省北部に古物を探しに出かけたときに文字の書かれた骨を見つけ、湖北巡撫の端方という人物に献上したとも言われている。

2.甲骨文よりみられる殷王朝の王系

 発見した甲骨断片を劉鉄雲は「鉄雲蔵亀」という本にあらわした。この本の中で劉鉄雲は甲骨の発見位置を河南省湯陰県と骨董商人に聞いていたため、この卜辞にみられる祖乙、祖辛などの人名より、殷代のものとしたが孫詒譲は字体上は周金文より古いが本当に殷のものか、おそらくは殷のものであろうが、どちらかというと殷周間の文字、とそれに留保をいれた。同様に卜辞に見える、祭祠を受けるべき、祖乙・祖辛・祖丁などの十干を使用した人名についても、直ちに「史記」殷本紀などの殷の王と一致させる事を躊躇した。
 この甲骨文から王系を確認したのは羅振玉、王国維の二人である。甲骨の発掘場所が、河南省安陽県小屯であること事を確認した羅振玉は「殷商貞卜文字考」、「殷虚書契考釈」で、甲骨文の祖宗の名称と「史記」の殷の王系とを比較し、また他方で殷代の帝都の位置に関した古典の記事を参照し、殷王朝が安陽の殷墟に都をいたのは王朝末期である武乙・文丁・帝乙三王の時代であると提唱し、卜辞に書かれた大乙以下の人名を「史記」殷本紀の殷王名と一致せしめ、甲骨文字がこの時期の殷代の王者の祭祠を卜した資料であることを提唱した。これを王国維がそれ以外になお卜辞上に比定し得る王名があること見つけ、「史記」殷本紀及び三代世表に載せられている殷の王系と徹底的に比較研究が行われた結果、一九人の王名を断定することができた。さらに王国維は二つの卜辞の断片を接続し、これにより「史記」の王系の間違いを卜辞により訂正すべきであることも発見した。その後郭沫若がさらに一片を加え、これを完璧にした。
 王国維は卜辞の先王の名を比定しただけで、それを確証する資料を持たなかったが、中央研究院の発掘によって新たに数個の断片が発掘され、接続されることになり、先王の名を確証できることとなった。
 羅振玉・王国維によって試みられた、この史記と卜辞を照合する試みはその後発見された甲骨遺物の新資料により確かめられつつある。これは甲骨文が資料として使えることの確認とともに、「史記」殷本紀が誤謬を含んでいるがほぼ正確な資料であることが判った。

3.卜辞にみられる殷の階級制

 殷代後期の歴史は卜辞が同時資料としてあげられている。だが卜辞は短文が多く、また卜辞を刻み込んだ甲骨は断片に砕けたものが多かったから、年代を厳密には追えないし、細かいことはよく判っていない。だが董作賓が断代研究法を提唱したことにより、時代を五つに分け各期の特徴的な現象を示現している。
 殷王朝は帝盤庚に率いられ山東省から河南平原に進入し、土着農耕民を征服して殷王国を建設した。ところ旧資料にはが殷代の地方行政組織について記事は載っていない。「史記」には帝紂の頃、三公、諸侯などと書かれていることから、「侯」と言うような諸侯が封建君主として地方を支配し、その中から選ばれて中央政府の執政に任じた、と言うようなことが漠然と書かれ、知られていた。これを卜辞で確認するには殷代の爵位は階級だけでなく殷王朝の地方統治の組織とも関連づけねばならない。
 卜辞の中で苦方・土方などの某方といったものがたびたび王国の辺境に侵入し、王国はこの防備を行い、王国側からもこれに対し外征を行っている。おそらく方というのは殷に服従しない独立国や敵国の名称であり、また古くは方は邦と同音で国を意味した。殷王朝はこの独立国の君主を卜辞で、「夷方伯」というように「方伯」と呼んでいる。ちなみに周代からは方ではなく、国を使うようになり、諸外国を四国と言うようになった。
 卜辞で諸侯の称号をとして頻繁にみられるのが侯であって伯・子などはこれに対し非常に希にしかみられない。侯は外国の征伐に際し王命を受け従軍し、王国の軍隊を先導し敵国に侵入している例が多い、このようにみると、侯は直接殷王朝の政令を受ける諸侯であった。
 殷王国の辺境地方には直接に政令を報じ王朝に奉仕する候・伯といった諸侯国が置かれ、その下には田といった小諸侯が属し侯・伯を通じ間接的に政令に従っていた。殷代において既に王と侯・伯、侯・伯と田との一次的・二次的封建関係が存在していた形跡があり、これに応じて諸侯の位階は候及び伯を上位とし田を下位とする二級が考えられ得るが侯・伯の間に高下の差があったかは不明である。これによると殷代には二つの爵位の存在を確認できる。

4.卜辞にみられる殷の社会

 殷王朝において亀甲・獣骨による卜占が盛んに行われたことは殷墟から発見されるおびただしい卜辞を刻んだ甲骨の実物によって直接示される。卜辞によると殷墟に都を定めた武帝以降の諸王は、天地山川及び祖宗の祭祀、王の病気、外国征伐・年国の豊凶・天候・次旬の吉凶などをいちいち亀卜・骨卜によって天意をうかがっているので、王朝の公的生活、王の私的生活に至るまですべて亀卜・骨卜で決定していたといっても過言ではない。祭政一致の神聖政治を行った殷王朝においては、占卜は単なる宗教的行事ではなく国家の大事である軍事・祭祀・政治を決済する政治的行動であり、卜辞は宗教的資料だけでなく政治的資料でもあった。

6.追記

 倉敷の大原美術館の東洋館でも甲骨文字の入った骨片をみることができます。興味のある方はそちらに行って実物を見るのもよいかと思います。

参考文献

貝塚茂樹  「中国古代史学の発展」 中央公論社
貝塚茂樹  「古代殷帝国」 みすず書房
 「広辞苑」 岩波書店
福永光司 訳 世界文学全集「五経 易」筑摩書房


中国の歴史世界へⅠ [中国史・殷]

殷王朝の出自について

 確実に中国に実存した最古の王朝は、疑うことなく殷帝国である。その殷帝国の始祖は契という人物である。彼の出生も神秘的である。有城氏の女で帝コクの次妃(第二夫人)となったという簡テキが、ある時水浴にゆき、その折、玄鳥(燕)の卵を呑んで身籠もって生んだ子であるという。有城氏とは大きな矛つまり強力なる武装や兵器などの軍事力をもつ氏族(血族)ということである。また、その玄鳥伝説とか卵生マジックというものは、古い東アジア地域ではきわめて普遍的な信仰の一つで、信用できるものである。その契は禹王の黄河の治水事業を助けた功により、帝舜の時代に河南の商の地に封ぜられたものである。ちなみに殷の名称はもと殷王朝の遊猟地で、「商」が正しい国名なのである。殷王朝の歴史を見ると、その契から最後の帝王帝辛つまり紂王まで、四十三人の王統の世系がしるされている。 その王名を見ると、すべて甲骨文字の上にも記載されている名前である。けれども実存の殷王朝の建国の始祖としては、その中で契より十四番目に当たる先王前期の天乙(湯・大乙・天乙・唐)つまり後の殷の湯王である。 この殷帝国の国号の「商」字は、牛や羊などの牝の臀部を後方からみた形象の「円」と、女性の陰門を表す「口」と、音符の「郡」(外へ出る意を示す)とから成る形声文字で、子供を生む股間の穴つまり女陰の意を表す文字である。また、「殷」字は、女性の懐妊を象った象形文字の「身」字の逆形の「貞」と、ある行為を行う意の「 」を合わせた会意文字で、女性が胎児を体内に覆しもつ意の文字である。つまり素朴な原始時代の懐妊の喜びを示す原始信仰による表現である。さらに殷族の氏族神は「桑林」という。この「桑」字は、春の季節になると柔らかい大きな若芽を沢山出し葉で樹上をおおう木の意である。その柔らかいことが女性の性器の柔弱さと相通じることから、関係あるものを表すことばとして古く用いられていた。王者の交接場所や懐妊説話、男女会遇(密会)の場所の意など、一連の表現語として用いられている。古代歌謡では桑は、直ちに恋愛・結婚などを暗示する枕詞的役割を果たしている。また、殷帝国滅亡後はその祖先の霊魂慰撫のため樹てられた国、つまり「宋」は「ウ」と「木」ではなく「桑」を表す「木」とから成る文字である。これは始祖契の燕の卵生マジックと併せて、当時の中国人の生活の在り方を示している。これらは後世のごとく性を秘密のもの、汚いものとするの意ではなく、人間いや社会構成に最も必要な、「生」の湧き溢れる表現からきたものである。つまり生命の発露への渇望からきたものであろう。古代と現代の感覚の相違である。

これら殷帝国の王名は、あの『史記』の殷本紀にもすべて載せられている。けれども甲骨文字の発見される以前は、まったく日本の『古事記』の神代の巻中の神名と同じく、全く荒唐無稽のものとして誰も信用していなかったのである。しかし一度甲骨文字が発見され研究が進むと、一、二の偶然の間違い以外は、全くぴったりと正合していたのである。著者の司馬遷(前一四五-?)は漢室の秘府中の諸資料を参照して、この『史記』を完成させたという。しかもそれは疑うことなく周室・秦室などの秘府の継承のものであり、項羽の威陽の一炬の後のものである。中国の歴史資料の、正確さにも驚かされる事実の一つといえよう。とにかく、この『史記』は紀元前二世紀の著で、日本ではようやく「無言の歴史時代」の弥生中期ごろに当たる。『史記』はこの時代のすでに歴史集大成書であり、しかもそれより千余年前の記録である。

 この殷王朝の出自についてまず考えてみよう。この王朝の記録をみると、その帝都の移転がしばしば行われていたことにまず注目させられる。それは始祖の契がハク(洛陽二里頭)に都して以後、王朝創建者の湯王までに八回という「八遷説」と、その成湯以後盤庚王が鄭州二里崗から安陽の小屯へ遷るまでに五回もという「五遷説」がある。他にも安陽遷都後も周辺の地へ宮殿を遷したなどという記録もあるが、ここではそれは抜くことにする。留意すべきことは、本来遊牧民というものは、一定常住の都を持たないということである。羊を飼うことを中心とする牧畜民は、牧草を追って常に移動する生活様式である。つまり大集団である遊牧族は、王庭を転々と変える流浪・漂泊を重ねる生活がその実態であった。そのため定着帰農生活になった後にも、殷族はまだこの移動性の習性を持ち続けていたことを示すものであろうか。

 次に、中国では古く天・地の神を祀ったり、祖先の霊魂を慰撫するために祭る際に、犠牲というものを供える風習があった。それは彼等の生活の中で、祖先に民族的な最高の重要食糧を用いることに意義があったのである。後には太牢などという牛、羊、家(いのこ・ぶた)の三種の動物が主ともなった。殷帝国の時代には、姜族の人間を用いていたこともあったが後に触れよう。その動物類には、竜山文化時代の遺跡からは、豚や犬、羊の骨が発掘されており、少量ではあるが馬の骨もみえている。次いで殷の早期の二里頭遺跡からは、牛、羊、豚、馬などの骨が発見されている。また、殷代中期の鄭州二里崗遺跡からも牛、羊、豚、犬、馬などの骨が発見されている。馬の骨があまり多くないのは、当時は車や戦車を牽くことが主であって、食用ではなかったからである。牛と豚は食用専門であったが、羊は食糧とその毛を用いるとの二面があり、特に珍重されていた。ところがその遊牧民の最重要の家畜である羊と、殷族の最重要食糧の大麦は、もと西アジア地域の原産種である。遊牧民というものは、全く羊群を追って牧草を求めて、各地を転々とするのが本来の姿である。曲説すれば、西方族の多くが遊牧民と化し、東部地域へ流入したことは、正に羊があっての現象であるともいえる。また、羊を犠牲に用いるということは、単に牧畜民族というより、それはもと遊牧民族であった片鱗を示すものである。すると殷帝国の動物犠牲の中の羊の多用をみては、殷族はもと遊牧民として中国に流入した一種族である可能性を窺わせるものである。これを裏付けるものに、上記殷族の主用食糧の大麦も西アジア原産種であるという点である。

 それでは、その殷族はどのような経路をとって中国へ流入したかが一つの問題となる。いったい中国本土への西方地域からの流入経路については、大略二つの大きな道筋があったことが想見される。それはおおむね現在のウイグル自治区のタリム盆地から北辺地区へまではほぼ同じであったろう。つまりクンルン山脈以北の地である。それも、厳密にいうと以後は主流が二筋に分かれ、その一飯はモンゴルのステップ草原地区を東方へ、河套(オルドス)北辺を過ぎたころから晋陳峡谷の東側を黄河本・支流に沿って南下する道順である。これには周族などが考えられる。また、蘭州あたりから滑河(水)の上流かその支流に沿って、天水から宝鶏、成陽と陳西の地に入り、トウ関あたりで黄河の本流に沿って、洛陽平原に入ったものとみることができる。後の仏教の西域から洛陽の白馬寺までの伝来の道節も同じではないか。そしてまず二里頭・崇山周辺に住みついたのが殷族である。その事実の上に考えられたのが、嵩(崇)山あたりに住みつき、そこを本拠地と考えたのが夏王朝の伝説である。この両地方とも共に地味肥沃の豊かな地帯である。

 この二族以外にもこの周辺には、他の多くの種族の人々が住みついていたことも事実である。それらはあの有名な河南竜山文化圏を築いた人々であり、順次殷族に征服統一され連携をとる氏族連合と化し、中国最初の実存の王朝殷帝国を興起・創始させたのである。こうみることによって、夏王朝伝説の一つの解釈、殷帝国興隆の背景は競えるのである。また、北辺から南下した周族は、そこで幾多の他族の迫害を受け、ついに黄河本流を西漬して岐山山麓の周原の地(夾西省岐山県鳳離村)へ腰を据え、力を養い貯えることになる。

 さて中国古代の洛陽平原中の二里頭辺に東来居住した殷族は、いったいどのような生活を営んでいたのであろうか。それとも先行する夏王朝時代に当てられる、いわゆる河南竜山文化の中から脱皮してのものなのかは、まだ全貌は不明である。けれどもその時代において、都市の創設とか城郭の建設という、きわめて高度な重要な文化を営んでいたことは注目に価する。

 そのことで極めて重要なるものは、河南省エン師県二里頭遺跡の発見である。その土地こそは、殷帝国の創始者の湯王が初めて都を定めたハクの地とされたところである。そして他にも確かに殷代前期の多数の遺物が出土している。そこは現在は洛陽市の東方二五キロの所で、北方約一〇キロに黄河の本流が流れ、北側は洛河に接し、南へ五キロで伊河に達し、エン師県の南でこの両支流は合流している。南は嵩山、北は印山、西南に竜門山・香山の三方を山で囲まれている。遺跡の広さは東西二・五キロ、南北は一・五キロほどである。土地は肥沃で自然環境に恵まれ、生活を営むには最適の土地であり、沙漠地帯からきた人々には正に桃源境である。殷族はこの地で早くから帰農定住生活に入り、農耕と牧畜を営んでいたと思われる。この地洛陽は、後に西周の初年に周公旦による成周の都、東漢、曹魏、西晋、北魏、隋、唐、梁、後唐、後晋と、九つの王朝が相前後して都城を置いたことでもその価値が競えよう。

 この地ではきわめて多数の殷代前期の遺物を窺うことができるが、なんといっても特筆すべきことは宮殿址の発見である。この二里頭遺跡のなかに、巨大なる壇と中央北側の長方形の建築基壇があることが注目される。壇は正方形に近く、北東部がわずかに凹んでいる。この壇は区画の中に土を入れて一層ごとに棒でつき固めた、いわゆる版築という工築法で造られている。大きさは東西一〇八メートル、南北約一〇〇メートル、高さ約八〇センチはどで、西側に逆「コ」字形、東側に「L」形の璧があり、その内側に柱穴列がある。長方形の建築基壇は東西約三六メートル、南北約二八メートルほどあり、これは宮殿の基壇であった。また、南側には大門址と思われるものも残っている。このような原始の時代にすでにかかる大建築が行われていたということは、すでに相当なる財産の蓄積と私有が進んでいたということである。また、階級の分化や貧富の差もかなり生まれ出ており、ここでの居住者たちが相当に大きな支配階級として権力を握っていたことを窺わせる。彼等は、古代という時代の特色として、祖先の霊魂慰撫の祭祀や政治の施行の上でも必要であり、生産活動など以外にもこのような作業に従事させる余剰労働力を吸い上げることが可能な力をすでに持っていたのである。それは原始的な国家機能が形成・現出される社会的な発展段階にすでに到達していたことを示している。

 また、この宮殿址以外にも、住居址と思われる遺溝も別に二六基も発見され、いわゆる集落のような居住区が形成されていたことが境える。さらに墓葬例も六〇基以上も発見されている。そしてそれらの中には両手または両手を腰骨に密着させた、縛られた姿勢を示す体形の被葬者も発見されている。また、単独の頭骨とバラバラの肢骨の形を示しているものもある。それらはあるいは当時の奴隷か、祭祀の犠牲者の遺体かと見られるものもある。さらに副葬品には各種の陶製の器具が発見されており〔もちろん陶窯なども発掘されている。最も注目すべきことは、仰紹文化よりやや進んだ漢字の先行形と思われる陶片上の刻符、または陶器上の花紋などまで発見されている。

 この期の文化様式では、もちろん陶器や玉器、石器、骨角器、貝器なども発見されているが、新たに青銅器類が発見されていることが注目される。これは従前先行の河南竜山文化と大きく異なる特質点で、すでに青銅器文化時代に突入しており、河南竜山文化と殷文化の関係を考える一大視点でもある。それとは別に、農業生産工具、漁業用具、狩猟具、手工業生産工具なども注目される。それらの中では鎌(かま)の類の出土品が多いことは、この期の文化がすでに明白に農業経済基盤の上に成り立っていることを示している。

 さらに呪占傾倒国家として有名な殷帝国の先行文化として、牛や羊、豚などの肩肝骨器を占いに用いていたと確認できる卜骨類の発見も注目すべきことである。

 このように相当に程度の高い生活基盤を築いていた殷族は、いかなる理由によってかこの地を棄てて、東方の鄭州の二里崗へその王城を還している。その詳細は不明にしても、当時の事情を総合的に判断すると、嵩山付近を牧草地としていた南方姜族集団の強力なる騎馬兵団と戦車戦法に恐れをなしての結果からと思われる。

 殷族の次の居住地鄭州の二里崗の地には、殷帝国の先王前期の第十代の王、仲丁(中丁)が遷ったものといわれ、傲の地がそれであるといわれている。鄭州は黄河流域の中央部の南岸にひらけた土地である。古来「中原」(天下の中心地の意。辺境および蛮夷に対する語。黄河中流の地域)の地の名で知られる軍事上、交通上の要地とされている。ここはまた洛陽平原上の二里頭の延長線上の地点でもある。この地の考古学的文化形成は、最底部に河南竜山文化層と、その上に二里崗中層と二里崗上層とがあり、疑いなく殷代中期の文化が展開されていたことを物語っている。

参考文献「中国古代史の謎」「安陽発掘」「中国の歴史」 


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