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変なことを思いついた!! [郷土史・日向國]

先日、佐土原の島津家久・豊久展を見に行ったんですけどね…
茉莉花「ドリフターズですね♪」
違うくて…いや、違わないのか…うん、まあその豊ぽんとパパンの家ぽん。
で、まあ、色々と豊臣家発給文書とか見てて思ったんだけど…

続きはwebで、ってここもwebだった。てへっ!


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またしても… [郷土史・日向國]

大学に通っています。
妖狐「郷土史研究のため…」
ではなく地歴の教員免許取得のためです。
まあ、前期は8単位、後期に同じく8~10単位ぐらい取得して来年残った分を取ろうかなぁと思っています
ミナ「一年で取れば楽なのに」
080415_01.jpgいやその、色々と楽したいし…ほら、レポートを8つ!とか言われてもムリだし…
ミナ「ちょっと待て!!」
いや、それ以上に仕事があるんだってヴァ!!
080415_02.jpgミナ「月曜日はまるっと休みなのに?」
はい、スミマセン…でもね…
ミナ「言い訳無用!」

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高城合戦を追ってみるⅡ [郷土史・日向國]

えーと…前回は飯田肥前守が死んだ話までか…
妖狐「空きましたね」
空きましたなぁ
気を取り直して。
まあ、とにかく一揆・島津勢が押し寄せてくるってことで伊東義祐一行は都於郡から大分へ逃げ出します。この逃避行が結構陰惨で延岡(県)はすでに島津氏と手を組んでいる土持一族がおり、伊東氏とは50年前からず~~~っと新納院財部(現高鍋町)を巡って争ったり新名爪あたりで争ったりしており、はっきり言うと仲がよろしくない。
妖狐「ということは現国道10号を使って延岡を突破して北上はムリ」
左様。で、さらに悪いことに富田(とんだ)の湯地出雲守が義祐脱出と同日に島津氏に寝返ります。
妖狐「反伊東の勢力が高鍋まで南下?」
まあ、日知屋、門川、塩見がまだ下ってないので南下とは言えませんが、都於郡(西都市)-財部(高鍋町)-国光原(川南町)-美々津(日向市)-門川(門川町)と抜けていくのは非常に危険な状態になるわけです。
妖狐「それで山越ルートをとったわけです」
都於郡を1577年12月9日深夜にたち、11日には穂北、12日に尾八重、13日には祖母が谷14日には神門、17日には高千穂塚原(日向記だと高知尾塚原と書かれてますけど)25日には高千穂三田井の三田井惟政邸に到着します。
妖狐「…ホワイトクリスマスだ」
伊東義祐はホワイトクリスマスを野宿してしまったわけですわ。この逃走劇の間に動けなくなった娘を親が殺すといった出来事が起こるわけですね。
妖狐「この間島津勢が落武者狩りをしたという話がありますね」
うーん…弁護する訳じゃないけど落ち武者狩りをしたのは地域の武装農民だと思いますねぇ。
妖狐「その根拠は?」
1.まず、日数。三股院高原を落としてから野尻城を調略するまで3ヶ月かけているのにそこから伊東氏の本拠である佐土原、都於郡を攻略するのに短期でできるとは島津義久や日向表攻略の主力になった上原尚近なども考えていなかったのではないか。
妖狐「確かに…飫肥城攻防戦も最後は148日かかってますしね」
それにまだ日知屋・塩見・門川は落ちてないし、佐土原にたどり着くまでには内山・飯田・穆佐・宮崎・倉岡といった諸城がある。
妖狐「落ち武者狩りなぞしている余裕は島津勢にはないですね」
さらに伊東家重臣木脇祐守が捕まったのは2年程経った後。つまりこの頃まで日向国内は高城合戦があったり安定していなかったとも言える。

2.伊東氏攻略は多方面作戦である。
妖狐「どゆこと?」
同時に南郷・目井・飫肥を島津征久・北郷時久率いる一軍が攻略しているのですよ。それ以外にも薩肥境にある丁度の兵力を残さないと相良氏がどう出てくるかわからない。
妖狐「少なくとも三方向への戦略だったわけだ」
最低3つに兵を分けたのであれば1軍は1万を超えなかったのではないかと思う。高原城攻略が39衆で行われましたが1衆700人前後だとしても30000人越えるか越えないかといったレベル。
それを3つに分けたら一軍一万人前後。野尻に本拠を置き攻略を進めますが2週間程度で日向全体を抑えることは難しいと思います。

3.島津義久は伊東家を滅ぼす意図はなかったのでは?
妖狐「おお!爆弾発言!!」
まず、伊東家は島津家にとっても姻戚関係。何度か島津から伊東に、伊東から島津に輿入れが行われています。さらに島津諸家も伊東家に輿入れしています。
妖狐「串間の新納本家や北郷家は有名ですね」
さらに伊東義祐の従兄弟伊東加賀守祐安の子、伊東源四郎は既にこの時島津氏に仕えている。というより島津義弘の近侍に取り立てられているんですよね。
妖狐「薩摩伊東家のはじまりですね」
だから…というわけではないですけど、三州守護を唱える島津家としては内乱を起こしている(と目される)伊東義祐の追放と伊東宗家の所領替え、豊州島津家の飫肥返還、各城の地頭の更迭あたりが目的だったのではないかと思う。
妖狐「要するに反乱の根っこを断て、と」
無理に日向を攻め取ったとしても人がいない。薩摩から人を移すわけにもいかない。となると伊東家を滅ぼして島津氏が治めるより伊東氏を完全に支配下に置き間接的に統治したほうが、よりデメリットが少ない。
妖狐「なるほどね。ま、その辺は今後の学者の研究を待ちましょう」

ついでに言うと四半的の逸話もこの時期ではないかと思います。
妖狐「巷説では飫肥城攻防戦の間ですよね」
そう、だけど、飫肥城は元々島津氏が治めていた訳だし、そこに無闇に攻め入っているのは伊東氏な訳。城攻めに農民が協力して島津兵に弓を射る…ありうるか?
妖狐「ありえませんね。まず農民は城の中に逃げ込むか、山中に逃げ込みますね。余程圧政を敷いたところでないとあり得ないでしょう」
飫肥豊州島津家は忠廉・忠朝・忠広・忠親と続きますがその間に圧政を敷いた様子は見受けられませんし、忠朝に至っては飫肥を裕福な町に育て上げ、薩南学派を飫肥に定着させています。
妖狐「つまり恨まれる覚えがない…と」
左様。農民が義祐を助けるとしたら日向崩れのこの時期しかあり得ないんですよね。

妖狐「ま、とりあえず四半的の話はおいといて」

まあ、義祐・祐兵一行は1月には何とか大分までたどり着くわけです。

妖狐「話がそれましたが一応今回はこれまで。次は土持氏の話ですかね?」
とりあえず、土持氏の由来と財部土持氏、県土持氏の滅亡がメインですね。


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高城合戦を追ってみる番外 [郷土史・日向國]

京都郡苅田町遠征

えー…朽網って「くたみ」だと思っていたら「くさみ」なんですな。
朽網氏といえば耳川合戦(高城合戦)に朽網宗歴が参加していましたね。
苅田から高鍋まで…今なら高速道路を走って5時間弱ですが、当時であれば5~6日ってところですかね。行軍なら2週間程度?
厭戦気分が蔓延してもおかしくないです。
確かに立花山や古拠山あたりであれば苅田やもう少し南の戸次あたりからであれば一山越えるだけで大兵を送り込むことができるでしょうがさすがに佐土原、穆佐まで攻めていこうとすればかなり負担は大きい。途中で必ず補給が必要になってくる。ところが高城に至るまで、地元の国人を調略したような様子がない。やったことと言えば日知屋、門川の三城の地頭を寝返らせた…と言っても元々伊東家の遺臣なので初めから寝返っているようなモノ。
さらに延岡の土持氏を滅ぼしたばかりでその遺臣に対する処理も行わない内の出兵とのことで民心が不安定…と言うより逆意の中の行軍と言っても良いのでは無かろうか。

増してや、日豊国境の宗太郎峠を越えると気候がまるで違ってくる。当時の日本が現代に比べ寒冷状態だったとしても北九州と南九州との差は歴然としており、短期ならともかく長期の対陣は出兵をする方には負担となったに違いない。
後年、島津家久が44歳という若さで病死したのも豊前、豊後への長期在陣というのもあるだろう。また逆も然則。豊前豊後衆が南に下ったとして(季節にもよるが)その気候の変化にすぐに耐えられたとは思えない。となると九州という地形は攻める方が圧倒的に不利であり守る方が優位に立てるといえよう。

恐らく、日州三国が島津氏、豊州が大友氏、筑州が大蔵一族・肥州が少弐・菊池諸族と棲み分けができたのもそのような気候的条件も含まれるだろう。

甲子夜話において豊臣秀吉が島津義久を評し「これだけ優位な地形にあるのに降伏するとは愚かしいこと」と言ったのも恐らく秀吉が直に薩摩の地形、気候を見てこれほど守りやすく攻めにくい地形を確認したことにもよるだろう。
実際、薩隅日(諸県郡)は低いながらも峻険な山が並んでおり唯一大軍が有利な場所というのは日向表の高城-都万(西都)だけであろう。

逆に薩日隅から豊前豊後に討ち入ればかなり強力な協力者がいなければ占拠・支配はできないだろうとおもう。秋月氏が協力者になったが秋月氏が古拠山城を奪回して時間がさほど経っておらず筑前36万石とはいえ豊前豊後を治めるには少々力不足といえよう。
まあ、遠征をした方が失敗するという九州における法則は見事に島津氏にも当たるわけで、戸次川合戦には勝ったものの豊州制圧は失敗するわけです。

…まあ、そんな話は横にほっといて。
北九州空港に行ってきました…スターフライヤーとメーテルを見に(笑)

スターフライヤー→
メーテル→

えー…メーテル様の睫毛は健在でございます。
で、まだアンドロメダまでは行けないようです。

スターフライヤー…結構パンダカラーリングはかわいいです。ボーイング社の飛行機に比べエアバスの飛行機の方がかわいい(笑)

で、気が付いたコト。九州4分の3周しちまった。で、料金、走行時間を計算したところ宮崎より一番遠い県は大分県だと云う事が判りました(笑)
やっちもねぇ


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高城合戦を追ってみるⅠ [郷土史・日向國]

妖狐「宮崎市の北隣に西都市があります」
  まあ、去年まで北隣は佐土原町があったのですがね。
妖狐「でも、宮崎市に合併したので北隣でもいいんです」
  正確に言うと北西ですがね~
妖狐「あーうるさい」
妖狐「で、その西都市は西都原古墳群で有名ですが、伊東義祐の隠居城の都於郡城もこの西都市にありました」
妖狐「…」
妖狐「都於郡城の写真は?」
…撮れてなかった_| ̄|○
妖狐「あーもう、使えない奴!」
代わりに西都原古墳群の写真でも…

妖狐「…まあ、かなり違いますが」
妖狐「天正5年(1577)12月9日山東諸城で伊東氏にたいして反乱が起きます」
  ちなみに山東とは霧島以東…と鹿児島の人は言いますが宮崎では青井岳以東を指して言う場合が多いです。基本的に山西は島津、山東は伊東と支配地域が別れていた…と考えていいと思います。
妖狐「で、その山東地域を伊東氏=伊東義賢…まあ当時義賢は8歳なので当然後見役として伊東義祐が、伊東四八城に地頭を配し納めていたのですが…」
妖狐「前々日12月7日に野尻城の福永丹波守が島津氏に寝返ります。翌12月8日に島津義久が野尻に入城。と、同時に戸崎城を島津氏は攻め、落城させます」
  戸崎城と野尻城は非常に近い場所にあり城主漆野豊前守は城を放棄します。ちなみに野尻城、戸崎城とも現在の野尻町内にあります。戸崎城は『のじりこぴあ』の対岸にあります。のじりこぴあのあのカエル…いったい何ざんしょ?
妖狐「で、戸崎落城の報を聞き、12月9日に山東諸城が反乱を起こした…まあ、半分はウソですが」
  まあ、伊東義祐の姻戚である福永丹波守が反乱を起こしたわけですから諸城が反乱を起こした…と思っても不思議じゃないですがね。まあ、農民一揆があちこちで起こり穆佐や内山、飯田でも
虚報が流された…と思ってもいいんじゃないかと思います。
妖狐「はい、内山城」
  えー…天ヶ城でいい?

  はい
妖狐「はい、内山城は1601年に天ヶ城と名前を変えます。が1577年の段階では内山城なのでこれで通します。当時の地頭は野村文綱。野尻城主の福永丹波守の親戚に当たります」
妖狐「ちなみに穆佐、内山、飯田とも旧高岡町になります」
妖狐「高岡から都於郡まで、本庄(国富町)を挟んで目と鼻の先になります。で、何を驚いたのか伊東義祐、城を捨て逃げることを決意しちゃいまして伊東氏一門みんな揃って山東から北に逃げます」
妖狐「伊東大炊介祐審がそれじゃアカンとばかりに12月13日島津氏を奇襲すべく本庄まで行きますが内通者がおり、逆に攻められ本庄で自刃します」
  まあ、ささやかな抵抗でしょうが内通者が出てますんで伊東氏=伊東義祐の政権は内側から崩壊していた、と考えても良いかと思います。
妖狐「とはいえ伊東大炊助や、三納地頭飯田肥前守祐恵…まあ三納地頭飯田肥前守は木崎原で戦死しているともあるんで子供かもしれませんが…のように最後まで抵抗した人たちもいたわけです」
飯田肥前守に関しては彼が死んだとき「折角の槍も主無き今は甲斐もない」と島津家臣が嘲弄したとき島津義久がそれをたしなめたという逸話もあります。
妖狐「えー…まだ話が長くなりそうなので後日に続く!」


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